Vinum et musica laetificant cor.

「ワインと音楽は心を喜ばせる」―ラテン語の格言より。

音楽

ありがとうございました

下記の演奏会、無事に終了いたしました。お忙しい中ご来場いただいた皆さま、本当にありがとうございました。少しでも楽しんでいただけたのなら、演奏者としてはこの上ない幸せです。

実は、先週は違う演奏会が土曜日にもあり、埼玉県は所沢ミューズまで行ってきました。こちらではバッハの無伴奏(抜粋)を一曲弾いたのですが、やはりバッハは難しい。弾いている途中にも発見があって(ベートーベンでもあることですが)、底は深く空は高く、本当に素晴らしい音楽です。それをきちんと、丁寧に、響きを作って音にするには…一重に練習以外ありませんね。

他方、日曜日の演奏会は、あまり演奏機会の少ない曲ばかりだったものの友人からは好評をいただいて、ほっと一安心。もちろん、今回も課題は見えて、何よりもリハと違う響きにすぐ慣れることができなかったのが一番の問題か。さらに言えば、頭で分かっていても体が反応しなければ意味がないわけで、いかにそれを自然に指先まで(本番の空気の中で)伝えるのかは、まだまだ意識を高く持たねば。

お忙しい中ご来場いただいた皆さまに、重ねて御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

打ち寄せる朝の海

大分にいた頃にふと立ち寄った(正確には時間つぶしのために意識的に立ち寄ったんだけど)CD屋さんで見つけた、ハンバートハンバートの『合奏』というCD。視聴してあっさり気に入り、最近家ではしょちゅうかかっています。特にお気に入りは2曲目に入っている「待ち合わせ」という作品。(小田急のCMに使われている曲だそうです。知っている人も多いかもね。)

最近、こんな素朴な感じの曲に心惹かれます。オーケストラは、どんなに言い方を変えても大業なものであることには違いないし、そこにはそこの魅力(他とは比較のできないもの)があるんだけれど、何となく小さなセッションで、音の数も少なく、穏やかに語りかけることで伝わるような感じがとてもよい。ふと家に帰って、こんな曲が流れるのはとても贅沢なことのように思います。

「明日はきっと美しい日」「ホームでの待ち合わせもそんなにわるくない」という部分の歌詞が特にお気に入りです。よろしければ、ぜひ。

構成要素

演奏会も近いということで、久しぶりに音楽についてのトピックを書こうと思います。

今度のミューズで演奏するベートーベンの交響曲第2番、第1楽章の終盤が好きです。弦楽器の波(ffで「刻み」をしている部分)を乗り越えて、トランペット(古楽器の団体ではナチュラルトランペットで演奏している場合もあり)が響き渡る部分。前半部分ももちろん良いけれど、このトランペットの響きはまさしく「圧倒的」。トランペット以外では出せない音です。

ベートーベンの第2番の調性はニ長調。すでに前の日記にも書いたけれども、このニ長調は宗教的な賛美のようなシーンで多用される響きです。同じベートーベンの「第九」はニ短調だけれども、有名な《歓喜の歌》はニ長調。去年の夏に第九を演奏した時の記憶は鮮明に残っています(あの時は、合唱のすごさに鳥肌が立ってしまったし、演奏の終わりが名残惜しかった)。

オーケストラにはオーケストラにしか出せない音があり、それは単純に他の形態(例えば弦楽四重奏や木管五重奏や吹奏楽など)とは音楽の種類の違いであって、どれしも優劣を付けられるようなものでもない。ただ、少なくともオケという存在は、人類史上最大のアナログ(多くの楽器によって出される音楽はステレオ)音楽装置である、ということはまず間違いないと思う。

要はその中で、いかに構成要素たるか、オーケストラ・プレイヤーであるかということが問題。一糸乱れない、という様子はそれだけでも何か美的なものを感じるし、時には恐ろしさだって覚えるかも知れない。オーケストラの場合、それは聴覚を基準にしたもので(そのためにあえて弓の返しを不ぞろいにしたりするわけだけれど)、一糸乱れない音こそかっこいいと感じる。

一糸乱れないためにどう弾くか。ソロとは全く違うような気もする一方で、基本動作は全く同じ。結果としてオーケストラ・プレイヤーとしてどうするかというのはここに帰結するわけで、なるほど結局大学生の時から一向に悩みは解決されていないじゃないかと思うのです。ドイツ・カンマーフィルの演奏がyoutubeに上がっていて、それを見つつ、こんなことを考えておりました。

健康でいること

大事だと思います。健康でいること。自分の体に対して気を使うというのはできているようでできてない。注意しなくてはいけません。が、今日はその話ではなくて久しぶりに音楽の話。

最近のうちのBGMは、月末の演奏会のためにブラームスとドヴォルザークが多いです。今回のプログラムの中には知っている曲もあったのですが、正直を言うとこれまでじっくり聴いたことがなくて、相変わらずよい経験を積ませていただいています。お世辞にも一般に認知度は高いとは言えない曲目ですが、とても良い曲ばかりなので、ぜひともお越し下さいませ。

さて、そんな中でのドヴォルザーク。実は大学3年の時にチェロ協奏曲をやった時以来なので、気がつけば3年ぶり。この人は本当に健康な人だったんだなぁーと感じます。特に精神面において。アメリカでの生活、チェコへの望郷の思いといったものも含めて紆余曲折はあったんでしょうが、音楽の中に「破綻している」と感じられるところがない(気がします)。

モーツァルトの音楽も破綻はあまりないのですが、水際で留まっているように感じるところは、(個人的には)実はあり、全盛時代の作品にはあまり見られないものの、例えばクラリネット協奏曲などには若干不健康そうに感じる一面もあったりします。ある意味、悪魔に魅入られたという感じ。彼の名前(テオフィリス)には反することになりますが…。

ちなみに好きな演奏はケルテス指揮のウィーンフィル。こんな風に演奏できたらなぁと思いつつ、昨日も練習して(個人練ですけど)きましたとさ。

赤のみそ汁

インスタントの赤みそのみそ汁を前にしつつ、更新しています。今日は宿舎の同期が無事帰国して、何とか再びアシスタントは2人体制になりましたとさ。(本当は4人が標準なんだけれど、2人卒業してしまったので)

先日の演奏会のレビューを書くのを忘れていました。たくさんの方にご来場いただき、またアンケートには多くコメントをちょうだいしまして、本当にありがとうございました。一緒に演奏した方々とともに、ホールの響きの中で幸せな時間を過ごすことができました。

ブランデンブルク協奏曲は、正直に言うと「よく分からんなぁ」と思う部分があったりもしたのだけれど(勉強不足です)、本番で弾きながら「ああ、ここはこうだったのか」とか「こんなきれいな響きだったのか」と気付く部分も多く、新鮮な気持ちで楽しむことができました。チェンバロのきれいな音に聞き惚れながら、第1楽章の長大なカデンツァの後の入りが心配だったというのは、今だから言えることですが。

余裕ができた時にはキリスト教と音楽に関する書籍を読みたいと思っています。天上への祈りのしるしとしてのバッハの音楽、合奏団のために作曲したとは言うものの、やはりどこか神秘的な響きを擁するその音楽は素晴らしいなぁと。ところどころでハッとさせられる音の重なりは、バッハ以外にはない(あるとしてもバッハ的な印象ではない)音楽だと思います。無伴奏ソナタなどとはまた違った味わいでした。

モーツァルトのクラリネット協奏曲、もうこれは「いい曲!」以外の評価はありえません!僕は特に第2楽章が好きなんですが、晩年のモーツァルトのどこか不健康さというものを感じつつも、ある意味、聴き手を現実社会から完全に引き離してしまって、音楽の中に浸してしまうというのはすごい。何よりもこういったことを感じながら演奏できたのは、一重にソリストの方の腕によるものなので、感謝感謝です。

メインの40番。アンサンブル上の事故は多々あったものの、「悲しみは疾走する」その様子は、やはり曲の魅力そのものではないかと思います。若干(個人的な印象としては)ベートーベンっぽい部分もあるような気がするのですが、その熱さがモーツァルトによって書かれたところが、この曲の特殊性な訳で、第1楽章の後半などは、その極みではないかと。ぜひとも39番、41番も演奏したいものです。(38番は過去に演奏済み)

フィリアホールも本当に素敵な会場でした。ご来場下さった皆さま、お世話になった演奏者の皆さま、スタッフの皆さま、本当にありがとうございました。

沈黙と静寂

最近、個人的にではありますが、大学時代に引き続いてバッハの無伴奏ソナタを練習しています。運指や音程は確かに永遠の課題(と昔から僕はよく言われています)ですが、そこに秘められている音楽が壮大で、すごく難しい。あーでもないこーでもないと思いつつ、ミクロな単位を考えていると、今度はマクロの全体が甘くなるし、マクロばかり考えると音に内在された、されるべき厳しさが無くなってしまう。

そんな時に考えるのは、「沈黙」と「静寂」という表面的には音がないという類似の状態の、明らかな差について。無伴奏ソナタやパルティータだけに限らず、バッハの音楽にはその両方が混在(実際は、きちんと順序付けられていて有機的な結びつきがある)していて、緻密な構造で巨大な建造物が創造されているような印象を受けます。

小林秀雄さんの「モオツァルト」の中に「音は音でしか語れない」という一文があるのですが、なるほど、確かにその通りだと思う。言葉にすると何と陳腐なものになってしまうのか、と感じます。(恥ずかしながら筆を進めるわけですが)

静寂とは、例えば月がきれいに出ている夜に遠くの方で何かが鳴っているような、ぼんやりした音が聞こえてくるような、そんな印象。他方、沈黙は、外見は静かなんだけれど、内なる音ばかりが喧騒のごとく鳴り響いて、精神的にはむしろうるさいくらいの、そんな様子。演奏しようとすると、この両方への神経の配分というか、どんな二本足でたてばよいのか、非常に難しい。

つらつらと書いてみたけれど、そこに答えがあるはずもなく、また楽譜と向き合うのですが。これは無限だな。こうして今夜も過ぎていくのです。シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」初演の、その夜に。

変拍子と弓順

今日はメロスのつてで誘っていただいたオケの練習に初参加してきました!(今まで参加できずにいて申し訳ありませんでした。)場所は新木場ということでしたが、定期券にかぶせて安く移動するために遠回りで。最短30分の道を50分くらい(乗り換えの歩く距離が長いのです)で行ってきました。

今回の曲は、プログラム前半はドイツ古典!という感じ、後半は20世紀の作品なわけですが、最初に聞いた時から不思議と違和感はなく、いいプログラムだなぁーと(ミーハーなので)感じておりました。今日は、その後者の練習。拍子の変化と弓順、そして音を取るのに必死でした。これは練習せにゃー。

オケをしていて楽しい!と思う瞬間は多々あるのですが、今日感じた一こまは、ここぞという場所でパート全員の重心が下がるというか、スイッチが入る瞬間を感じたこと。これは合奏だからできるわけで、しかも同じ合奏でも規模の小さい編成ではなかなか体験しにくい。もっとちゃんと弾けたらもっと楽しいに違いない。

20世紀の音楽は、あまり昔は好きではなかった(というか食わず嫌いだった)のですが、実はどれも噛めば噛むほど味が出るタイプで、いざ演奏してみるとかなり楽しい。(おそらく聴くより弾く方が楽しい部類の曲は多いと思う)もちろん、音楽の背景には、自分たちの教科書に載っているような政治闘争があり、戦争があり、弾圧があったせいか、どれも非常に個性的な印象を受けますが…。

今日はたくさん弾いたー!また明日からがんばろう。それでは、今日はこの辺で。

Ja, wer auch nur eine Seele

メロスフィルハーモニー「第九」特別演奏会、無事に終了いたしました。院生の同期、大学時代の友人、学校の先生方、それから今年就職で上京した昔の友達など、たくさんのお客様に来ていただきまして、本当にありがとうございました。

演奏会のプログラムが終演に近づくたびに「もう終わってしまうのか」といつも思います。今回の演奏会でも、第2楽章が終わり、ソリストが入場したところで、ふと我にかえり、もう3楽章と4楽章だけになってしまったとなぜか少し寂しい気になってしまいました。まだ《歓喜の歌》が控えているのにね


第九はやっぱり素晴らしい作品です。


ベートーベン自身は非常に信仰心の熱い人だったようで、歌の内容も宗教音楽的なのですが、なぜかその言葉の枠にはまらないパワーがあり、世界を包むような響きがあると(個人的には)思っています。もちろん、前にも書いたようにプライベートな感情がこもっているような気がするのも事実ですが、それを突き詰めていくと、きっとどんな人にも共通するような気持ちや思いにつながるのかな、と感じます。

第4楽章の《歓喜の歌》が始まるまでの約45分間、それだけの時間が経っているにもかかわらず、やはりあの旋律が始まると「これを待っていたんだ!」と感じてしまう。ホール全体に響き渡る歌声、それに包まれることがどんなに幸せなことか!メロスに参加させていただいて、第九が演奏できて幸せでした。

タイトルは、第4楽章の中で(音として?)僕が一番好きな部分。歌詞として好きな部分はまだまだ他にもあるのですが…(例えば、「抱き合おう諸人よ!この口づけを全世界に!」の部分とか)どこだかお分かりでしょうか。男声がここぞとばかり入ってくる部分ですよ。

重ねてになりますが、ご来場いただいた皆さま、本当にありがとうございました。

天井の飾り

今日は大学時代の恩師にお誘いをいただいて、上野の奏楽堂までピアノの演奏会を聴いてきました。目の前を知り合いの芸大生が通り過ぎたのは秘密です。

東京音楽学校の講堂として建設された奏楽堂は、例えば廊下とか椅子とか、確かに古さ(由緒正しさ)は感じるのだけれど、良く響くホールで、なかなか気持ちのよいところでした。特に室内楽(しかもトリオとかカルテットとか)の演奏会にはちょうどいいんじゃないかなぁと思います。舞台後方のパイプオルガンも壮麗な印象で、なかなかよかった。

特に天井は(客席の上はドームのようになっていたんですが)、木彫りの飾りというか紋様が細かく美しく、小さいところに美を追求する日本の良さというか、奥ゆかしい印象を受けました。また、歴史を感じさせるシャンデリアもなかなか趣きがあってよい。滝廉太郎もここで演奏したのか、と思うと大分人としても心に響くものがあります。

今日の演奏会は、どちらかというと発表会だったのですが、どの方もよく練習されていて(自戒を込めて)、今日の本番に焦点を合わせて生き生きと演奏されている姿が好印象でした。やっぱり音楽は楽しむものだし、一音入魂というか、そんな気迫も伝わってきて幸せな時間が過ごせました。演奏者の皆さまには、心からの拍手を!

ひとつ感じたのは、間の取り方。演奏者は演奏に没頭するために、曲が始まる前や間においても、すこし焦りがち(はしょりがち)。じっくりとお客さんの視点からの間をとって、さらに大きく一呼吸おくくらいで、ようやくちょうどいいんじゃないかなと。

何曲も演奏された方もいたんですが、前の曲と次の曲の時間や空気や雰囲気はぜんぜん違うもの(新鮮な気持ちで臨むべきもの)でしょうから、そこでじっくり間があると嬉しかったなぁ。こういった部分は、自分が演奏するときも気をつけなきゃいけません。果たして次はいつやるんだろうか…。

そんなこんなの、風の心地よい午後でした。さぁー論文読まにゃー。

巡礼、ということ

先日『アルケミスト』を読んで、さらにコエーリョ的な世界を知りたいと思い、もう一冊買ってみました。彼の処女作『星の巡礼』。サンチャゴ・デ・コンポステーラへの道のり(世界遺産ですよね?)、巡礼が始まったばかりなので、この話は追ってするということで。(実は友人の家の本棚にあり、前々からこの本には興味を持っていたのです。)

「巡礼」という行為が、信仰者にとってどれほどの意味を持つのかというのか、僕自身は実はよく分かりません。宗教上の教義としての意味合いは宗教によって違うかもしれないし、個人にとっての重みというのは、さらに様々なんだと思う。ただ、その根本にあるのが「祈り」というもの(感情?思考?それとも瞑想?)であることは間違いないのではないでしょうか。

何度もこのブログにも書いていることですが、最近バッハのヴァイオリン協奏曲が個人的に再ブームです。特に、第1番(BWV1041)、お気に入りは、ナイジェル・ケネディとアイリッシュ・チェンバー・オーケストラの演奏ですが、一般的には異端なのかも知れません。教会で演奏していることもあり、素晴らしい響き、音の表情の豊かさ(言葉にするとチープですが)が印象的。

そんなバッハの音楽に溢れているのは、「祈り」の心なんじゃないだろうか。短調の第1番の協奏曲は、音が地から天に湧き上がっていくような、(例えば演奏会の会場の)教会の天井に音が抜けていくような感じがします。ロングトーンの音とともに、内に秘められたものが天に向かっていく、でも、そこで下降音型とそれに導かれて出てくる低音が登場して現実の「今」を映す。

天に向かって祈ることが、すべてを天に任せることではなくて、逆に自分自身と向き合うことになる。感情が内側と外側の両方に向かって、そのぽっかりと空いた空間に、明るい長調の響きが収まることになる。巡礼者の心のうちは、もちろん人それぞれだけれども、バッハの音楽は、まさにそんな「巡礼」という行為に近いんじゃないだろうか。(ただし、あくまで自己の視点ではなく、客観的な視点で見ている。)

よせてはかえす波のような第2楽章の終わりに、そんなことをぼんやりと、考えておりました。

第九聴きまくり

最近、BGMはもっぱら第九です。(本当は、もう1枚別のCDもありますが、そちらの内容は内緒です。)

めちゃめちゃタイプが速く打てます。隣の隣でパソコンに向かっている友達(undergroundな皆さまは分かりますね)からは「(タイプの)音が高い」と言われました。果たして音的に違うかどうかは分かりませんが、がしがしレジュメ作っています。人生初の「一太郎」使用中。

さて、第九。前に生で聴きにいった時にも書きましたが、やっぱりすごい曲です。何といっても聴き手を圧倒する、そのパワー。そして飽きさせない。さすがは編曲の名手、ベートーベンと言ったところでしょうか。シラーの詩も素晴らしく、歌詞の意味なども調べると、なかなか楽しい。きっとネイティブのドイツ語を話す人から見れば、僕らが感じることとはまた違う印象を受けるんでしょうが…。

シラーの詩を引用しているところや、実際にその内容から推測されるに(先日の演奏会のパンフレットも同様に)、人類愛などの大きな議題を歌っていると言われがち。もちろん、それも一理あるでしょう。でも、個人的にはもっとプライベートな愛や愛情が溢れる曲なんじゃないかな、と思うのです。すべての聴衆への作品ではなく、誰か(具体的な人)のための作品。それを最初から最後までずっと悩んだり、落ち込んだり、はじけたりするから、安心できない。安心できない音の響きがする。

J-POPはなんだかんだでラブソングが多いですが、ベートーベン的な愛情の伝え方は、やっぱりこれしかなかったんじゃないかと。自分の中で、洪水のように溢れる感情が、そのまま出て遥か彼方まで響く音になる。第4楽章、最小音から怒涛の勢いで展開するpoco allegroの直前などは、まさにそんな音のような印象。そんなプライベートな愛情を、大業な作品にするところがベートーベンらしいじゃーないか、と僕は思うのです。

という訳で、久しぶりにオンガクオンガクな日記でした。今日はこの辺で。

ロシアンパワー

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湿気が気になる季節になると、自然とねじめ正一さんの「6月の蠅取り紙」を思い出します。教科書のお話の中でも、なかなか印象的な小説でした。(そして、最終的には単行本の「高円寺純情商店街」シリーズを読みきりました。気軽に読める、お薦めの書籍です)

さて、そんな梅雨の合間ではありますが、招待チケットをいただけたので、演奏会に行ってきました。場所は写真の、東京芸術劇場。オルガンが美しい印象的なホールです。今日は古いタイプのオルガンがこちらを向いておりました。指揮はアレクサンドル・ラザレフ、演奏は読売日本交響楽団。曲目はドヴォルザークの交響詩「真昼の魔女」、プロコフィエフの「ピーターと狼」、そしてメインにボロディンの交響曲第2番。

ドヴォルザークの交響詩は、アマチュアではなかなか取り上げない難曲(らしい)のですが、今日の演奏はよかった。やりたいなぁーと思いつつ、聞いておりました。そう思わせるのがプロの仕事なのかも知れませんが、実際に演奏してみると、どうしてなかなか難しい…当たり前か。

プロコフィエフの「ピーターと狼」は、CM等でもよく使われる作品ですが、ナレーション付きでの生演奏は初めてでした。こちらも好演。ナレーションも素晴らしく、非常に楽しく聴けました。いやはや、ナレーションも奥が深い。

メインのボロディン作曲、交響曲第2番はコアなファンが多い作品だと思いますが、ロシアンパワーというか、そのパワフルはリズムが楽しい。しかも今日のラザレフ氏は、僕が持っているCD以上にテンポを揺らしつつ、がっつり聴かせるという感じ。帰ったらまた聴いてみよう。

そんなこんなで結論から言うと、幸せな時間を過ごせましたということで。結局この記事は学校で書いているんですが、生活に緩急というか、こうした刺激があるのは楽しいこと。また機会を見つけて行きたいと思います。今度はオルガン付とかも聴きたいなぁ。
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