今日のテーマは普段以上に私論満載です。

縁あって国立大学法人に関するレポート(研究論文ではないです)を書いています。自分自身、国立大学法人発足の年に大学に入って、制度自体はこれまでの見直し時期である第2期中期目標を迎えようとしているという段階。大学自体のまとまった報告や論文などはまだまだ少ないですが、時期的なものもあり、新聞などの報道では断続的に「国立大学法人」の文字が躍っています。

参考文献を見ながら、とても不思議に思うことが一つ。大学の裁量と権限の拡大→自主・自立(もともとは大学の自治ですね)→選択と集中→個性ある大学という大枠はたいていどの文献にも載っているし、例えばいろいろな対談集などにも記録として、この趣旨に関する発言は残っていたりする。もちろん、無駄なお金の浪費はやめる、ということについては僕自身も賛成したい。

でも、果たして大学の「無駄」ってどうやって図るの?という問題があるわけです。例えば、今や電子データで残せるようなものを、むやみやたらに紙におこして記録する(もちろんそうしなきゃいけないものはあるでしょうが)ことは、「削れる」出費なんじゃないかなと思う。それじゃ、研究はどうか。何が無駄と判断でき、その成果が出ないものだと、いつ決めることができるのか。

国立大学法人制度自体を全否定したいわけではないけれども、少なくとも法学や文学は、実質的にロボットが生まれるわけでも、医療技術に貢献するわけでも、ましてや、一朝一夕に「成果」と呼ばれるようなものが生まれるわけじゃない。もともと成果の「測り方」も難しい(というか測れるんだろうか)し、相対的にセクショナリズムの強い組織においては、予算も削られていく。

公共政策ないし政策科学という分野自体、セクショナリズムがあっては成り立たないものだと思うし。あ、これは余計でした。

遠回りして、何が言いたいか、というと、最終的にしわ寄せに遭うのは、研究者よりもむしろ学生なんじゃないかと。限られた予算、研究の成果が出なきゃ給料にだってかかわる研究者、学生に対する批判的なもの(批判されるような学生もいるだろうけど)が注目される記事。こんな状況下で、学生のために使われる(例えば設備の充実化や更新など)お金なんて余計に減ってしまう。

参考文献を読んでいて不思議なこと。それは、改革を「される」側の末端の人間の声が収録されていないこと。先日読んだ学内広報誌に則して言うならば、「森を動かす」に当たって、外見の森だけを見て考えるんじゃなく、森を担う者(木とか土とか水とか、いろいろな要素があるじゃないですか)の声も聞いてほしいな、という感じでしょうか。