帰省中に、母と祖母と一緒に映画を見てきました。
今回見たのは本木雅弘さんが主演されている「おくりびと」。山形の田舎町を舞台に、納棺師である(となってしまった)主人公と周りの人々、そして背後には、人間の死の「無常さ」や「寂しさ」、そして「美しさ」を併せ持った映画でした。内容もさることながら、主役の本木さんだけでなく、他のキャストの方々や音楽が素晴らしかった。
消え去るもの、儚きものへの美しさを感じるのは日本特有のもの(たとえば桜の散る様子とか)と言われがち、実際そうなのかも知れませんが、仮にそうであるならば、おそらく死に直面した時の美しさや、死者に与えられる「永遠の美」という観念は、一種特殊なものなのかも知れません。英語にエンバーミングという単語があるように。
納棺師による動作の一つ一つが美しく、かつ円滑であり無駄がなく、そして死者に対する祈りの側面を有している。一過性のもの、そしてその場限りで永遠に人の目には見えなくなってしまうもの、というのは、ある意味で音楽にも授けられた特殊な美しさであり、必ず日常の裏側に潜んでいるもの。「潜んでいる」という言葉が間違っているかもしれません。隣り合っている、ものでしょうか。
言葉にすることは、その道の熟達した人でなければ、趣は半減以下になってしまうもの。この文章も、自分自身が素晴らしさを半減させてしまっているような気がしなくもない。ただただ、素晴らしかった。
今回見たのは本木雅弘さんが主演されている「おくりびと」。山形の田舎町を舞台に、納棺師である(となってしまった)主人公と周りの人々、そして背後には、人間の死の「無常さ」や「寂しさ」、そして「美しさ」を併せ持った映画でした。内容もさることながら、主役の本木さんだけでなく、他のキャストの方々や音楽が素晴らしかった。
消え去るもの、儚きものへの美しさを感じるのは日本特有のもの(たとえば桜の散る様子とか)と言われがち、実際そうなのかも知れませんが、仮にそうであるならば、おそらく死に直面した時の美しさや、死者に与えられる「永遠の美」という観念は、一種特殊なものなのかも知れません。英語にエンバーミングという単語があるように。
納棺師による動作の一つ一つが美しく、かつ円滑であり無駄がなく、そして死者に対する祈りの側面を有している。一過性のもの、そしてその場限りで永遠に人の目には見えなくなってしまうもの、というのは、ある意味で音楽にも授けられた特殊な美しさであり、必ず日常の裏側に潜んでいるもの。「潜んでいる」という言葉が間違っているかもしれません。隣り合っている、ものでしょうか。
言葉にすることは、その道の熟達した人でなければ、趣は半減以下になってしまうもの。この文章も、自分自身が素晴らしさを半減させてしまっているような気がしなくもない。ただただ、素晴らしかった。
コメントありがとう。
音楽は、生と同時に死が同居しているものだと思うんだ。
一過性である、というのももちろんなんだけれど、
生まれた音はそれを聴く人の中にだけ火を宿しつつも、儚く消える。
神という言葉の真意を捉えていないかも知れないけれども、
やっぱり音楽は神に一番近い存在なんだと思うんだ。
映画「おくりびと」で題材にされている納棺師は、
一過性の時間の分岐点に立つ存在であって生と死の両方を見ている。
すべてはそこに収束されて、また世界へ広がっていくものなんだと思うの。
もしもそうやって考えるとすれば、
音楽も、芸術も、人の声も、愛し愛されることも、生きることも、死ぬことも、
すべては同じ美しい線の上にあるものに見える気がするんだ。