先日『アルケミスト』を読んで、さらにコエーリョ的な世界を知りたいと思い、もう一冊買ってみました。彼の処女作『星の巡礼』。サンチャゴ・デ・コンポステーラへの道のり(世界遺産ですよね?)、巡礼が始まったばかりなので、この話は追ってするということで。(実は友人の家の本棚にあり、前々からこの本には興味を持っていたのです。)

「巡礼」という行為が、信仰者にとってどれほどの意味を持つのかというのか、僕自身は実はよく分かりません。宗教上の教義としての意味合いは宗教によって違うかもしれないし、個人にとっての重みというのは、さらに様々なんだと思う。ただ、その根本にあるのが「祈り」というもの(感情?思考?それとも瞑想?)であることは間違いないのではないでしょうか。

何度もこのブログにも書いていることですが、最近バッハのヴァイオリン協奏曲が個人的に再ブームです。特に、第1番(BWV1041)、お気に入りは、ナイジェル・ケネディとアイリッシュ・チェンバー・オーケストラの演奏ですが、一般的には異端なのかも知れません。教会で演奏していることもあり、素晴らしい響き、音の表情の豊かさ(言葉にするとチープですが)が印象的。

そんなバッハの音楽に溢れているのは、「祈り」の心なんじゃないだろうか。短調の第1番の協奏曲は、音が地から天に湧き上がっていくような、(例えば演奏会の会場の)教会の天井に音が抜けていくような感じがします。ロングトーンの音とともに、内に秘められたものが天に向かっていく、でも、そこで下降音型とそれに導かれて出てくる低音が登場して現実の「今」を映す。

天に向かって祈ることが、すべてを天に任せることではなくて、逆に自分自身と向き合うことになる。感情が内側と外側の両方に向かって、そのぽっかりと空いた空間に、明るい長調の響きが収まることになる。巡礼者の心のうちは、もちろん人それぞれだけれども、バッハの音楽は、まさにそんな「巡礼」という行為に近いんじゃないだろうか。(ただし、あくまで自己の視点ではなく、客観的な視点で見ている。)

よせてはかえす波のような第2楽章の終わりに、そんなことをぼんやりと、考えておりました。