Vinum et musica laetificant cor.

「ワインと音楽は心を喜ばせる」―ラテン語の格言より。

ブルーメンフィル演奏会

さて、春から夏へ移りゆく季節5月となりましたが、演奏会のご案内です。


---
ブルーメンフィルハーモニー第31回定期演奏会

*日時: 2009年5月30日(土) 開場18:15、開演19:00
*場所: ミューザ川崎シンフォニーホール(JR「川崎駅」徒歩3分)
*曲目: ブラームス/交響曲第2番
      ドヴォルザーク/交響詩「水の精」
      ドヴォルザーク/ノットゥルノ?弦楽オーケストラのための

*指揮: 森口真司
*チケット: 全席自由、2000円

その他、下記ウェブサイトもご参照下さい。
http://homepage3.nifty.com/blumen/


---
メインのブラームスの第2番は、交響曲第1番を書き上げたブラームスが避暑地ペルチャッハを訪れた際に、その豊かな自然からのインスピレーションを受けて作曲されたもので、遅筆なブラームスには珍しく、非常に短期間で製作された作品です。第1番とは対照的に、いわゆるブラームス的な重厚感のある響きとともに、《田園交響曲》たる牧歌的な美しさが魅力的な音楽です。

中プロの交響詩「水の精」は、チェコの国民的な詩人であるエルベンの詩に基づく作品で(オリジナルの話は結構残酷だと僕は感じるのですが)、これぞ交響詩といわんばかりのドラマティックな変化がとても魅力的な音楽です。ドヴォルザークの第8番にも近いような一種土臭い(そこがいいんですよ)印象も受けますが、それでいて映画音楽のような親しみやすい作品かな、と思います。

前プロとして演奏させていただくノットゥルノは、元来弦楽四重奏曲の一部分として書かれた作品で、それを作曲者自身が後に弦楽オーケストラのために改訂し発表したものです。穏やかな曲想の中に、チェコらしい、いわゆるドイツ音楽にはあまり登場しないようなリズムや和声の変化が現れ、弦楽器らしい、弦楽オーケストラらしい響きが十分に楽しめる作品ではないかと感じます。

ご都合よろしければ、ぜひぜひお越し下さいませ。ご来場お待ちしております。

大国か、強国か。

最近「中国」についての文献をよく読んでいる。前に読んだ「大地の子」(山崎豊子)の影響もあるけれど、むしろ直接の影響は現代中国政治の授業であったりします。なかなか興味深い。

中国は言わずと知れた今日の大国であるし(おそらくそれは間違いない)、その内部統制や広大な領域の中で何が起こっているか、という点についても興味をそそられる。毛沢東が中華人民共和国の成立(独立?)を宣言した天安門広場、そこに集まる群衆の生み出すパワーは底知れず、どんな方面に対しても大きな影響を及ぼすものだと思う。

なぜか気になってくるのは、大学時代の卒論の癖か、概念的なもの。アフリカ政治の授業でも出てきたような「国家」の概念。消費する対象のものか、民族的な部分に拠るところの大きな集団なのか、それとも何もない脈々と受け継がれるだけの法的な概念に過ぎないのか。果たして、中国における国家とはなんぞや、と考えてしまいます。

もちろん、別に中国に限ることではなく、日本だってよく分からない部分も多いし、現代社会に残る概念である以上(もちろん将来的には概念の淘汰や日本語の《国家》という言葉にも細分化が計られるかも知れないけれど)意味はあるものだと思う。中国においては、それが経済や文化などのあらゆる面に多大な影響を及ぼしている。

大国は、すなわち強国とは限らない。(しかも強国の意味についても曖昧だと思うし)、ただ、問題は、その国家がどのような未来を描くのか、何を次代に引き継いでいくのか、そこが気になっている。これは日本にとっても然り。国家ってなんだろうなぁと、道を歩きながら、本を読みながら、電車に揺られながら考えるわけです。

さ、でもとりあえず英語の勉強せにゃ。

名前について

今に始まったことではないのだけれど、小説の中に出てくる人物の名前はどれも素晴らしいものだなぁと思う。すでに書かれている名前以外では、やはりどうもしっくりこない。

ノンフィクションないし歴史小説(例えば、司馬遼太郎の「新撰組血風録」や「燃えよ剣」、城山三郎の「落日燃ゆ」などなど)なら、その人の人となりが若干なりとも世間に流れているわけだけれども、特にフィクションの世界での名前は、どれも素敵だなぁと感じてしまう。

今度映画化される「重力ピエロ」(伊坂幸太郎)の泉水と春。恋愛小説の金字塔のような「キッチン」(よしもとばなな)に出てくる桜井みかげ。個人的に一番好きと言っても過言でない短編小説集「つめたいよるに」(江國香織)の中に出てくるデューク、さよ、草之丞など。

名前が小説に影響を与えるのか、それとも小説のストーリー展開が名前を決めていくのか、実際そこはよく分からない。…のだけれど、一冊本を読み終えるたびに、どうしてこの人は、この登場人物をこう名づけたんだろうか、と考えずにはいられません。次は何読もうかな。

良くも悪くも

クーポン券があったので朝のマックのレジに並んでいて、商品が出てくるまで街の様子を見ていたら、ふとハノイのあの元気な街の光景が思い出された。

今「日本には戦略的思考が乏しいんですよね」という感じの内容の本を読んでいるせいか、やっぱり日本はアメリカとは違うなぁと思いつつ、じゃあどこと似ているのか(もしくはどことも似ていないのか)と考えていたのだけれど、やっぱり今日の朝の様子を見ていれば、アジアなのだなぁと感じた。(それがアジアの国に戦略的思考がないという意味では全くありません。)

金融危機があって今はどうなっているか分からないけれど、旅行で訪れた時のハノイはとても元気な街で活気があって、夜の湿気た空気も、どことなく「今日もおつかれさま!」というような感覚があって、とても良い印象だった。お風呂場の中にあるような小さな椅子に腰掛けてフォーを食べ、ホンダ(原付バイク)で通勤する。交通ルールとかははちゃめちゃだったけど…。

今日の朝、しかも文の京(ふみのみやこ)たる文京区の交差点、行きかう車やバイク、そして自転車、それから急ぎ足でかけて行くサラリーマンと学生などを見ていたら、何となくアジア的な要素というか、いわゆる洗練された「先進国」的なイメージ(勝手に僕の中で作っているだけの可能性もありますが)とはまた違う感覚を覚えて、ここはアメリカとは違うなぁと。

今日は久々に東欧の歴史を勉強してきます。

「認識の政治」

今学期、実は結構多くの政治系の授業を取っています。地域的にも日本であり、中国であり、東欧であり、アフリカであり、と多種多様な訳ですが、あまり大学で勉強しなかった(もしくは開講されていなかった)地域も含まれていたりしてちょっとおもしろい。特にアフリカは広い…。

そのうちの一つの授業で、先生から「認識の政治(歴史)」という話がありました。自分の国は何を目指すのか、よってどのような政治・経済体制であるべきか、またそれを国民に「認識」させるためにどのような手を打つのか。いわゆる「正史」の問題にもつながる訳ですが、これが面白い。

というよりも、正確には新しい視点と言うか(それは同時に自分の視野の狭さを思い知ることにもなるのだけれど)、こんな見方もあったのか、もしくは、今まで勉強してきたことはA面の話で、実はB面にはもっと面白い事象が潜んでいたりと、頭の中で考えをめぐらせることが楽しい。

そこでまた本を読まなきゃと思うのだけれど、読みたい本が溜まっている…否、読まなければならない本が溜まっているのが痛いところ。どれもこれもが研究に結びつくわけでもないし、興味本位のものもあるのだけれど、少なくとも一つひとつじっくり見ていく以外にはなさそうです。はい。

ローカル線の桜

ご無沙汰してすみません。だいぶ更新が滞っておりました。

就職活動をしていると、今まで行ったことがなかった駅にしばしば足を運ぶことになります。東京のど真ん中なのに、降りたことがなかった皇居のまわりの駅だとか、ほぼ神奈川なんじゃないかと思うくらい南(西?)の方の駅まで行ったりとか。その見たことのない車窓が実は好きです。

京浜東北線から一本途中で乗り換えて、ローカル線に乗る。電車は3両!当然ワンマン運転。何よりも清掃員のおじさんが良い。電車に乗ると「本日はご利用ありがとうございます。清掃させていただきます。」素敵だ!ごみをみつけると、ささっとはいてチリトリで回収。素敵過ぎる…。

沿線のごちゃごちゃした街並み。小学校の校庭を囲っている桜の木。今か今かと開くのを待っている踏切脇の人。そして、白いペンキで塗られた木造の駅舎。どれも素敵だなぁ、ローカル線っていいなぁと思います。世界の車窓からもいいけど、日本の(しかも都内の)電車も楽しいです。

今年は花見が出来ずじまいだった…来年こそしたいなぁ。

晴れますように

急ですが、週明けに一旦つくばに戻ることになりました。

僕の人生に先鞭を付けてくれた大切な一人、大学時代の先生にご挨拶とお礼を申し上げてきます。今まで影響を受けてきた人は数知れないけれど、今の自分の原動力になっている言葉をいただいた方です。ふとした昼ご飯、大学の脇のカツ屋さんでの話でした。一生忘れないと思います。前を向いて、姿勢を正して、しっかりと深く深くお礼を申し上げてきます。

予告編に感動

今日は後輩の卒業記演奏会ということで、つくばまで足を伸ばしてきました。感想は端的に、良い演奏会でした。幸せな時間を過ごすことができました。演奏者の皆さま、ありがとうございました&おつかれさまでした。

さて、今日は久しぶりに秋葉原からTxに乗ったんですが、例のごとく駅前の本屋さんに寄ってきました。そこで仕入れた情報によると、5月末に伊坂幸太郎の「重力ピエロ」が映画化公開らしい(すでに知っている人も多いとは思いますが…)読んだことのある人なら特筆する必要もないんですが、このお話、ミステリーであり、かつ、ダークな一面もあったりして(だからこそ面白いですが)僕自身は高速で読みきってしまった一冊。

最近の本屋さんによくある、小さい画面のDVDプレーヤーみたいなもので映像が流れていたのですが、その予告編がまた素晴らしい…(映画の公式サイトでは「特報」とされている方です。)。上にも書いたようにダークな一面もあるのですが、それを包むというか、小説の冒頭の文章が言葉で流れる以外は、バッハのアリア(管弦楽組曲第3番より、いわゆるG線上のアリアです)の弦楽四重奏版?が流れていて、全体の雰囲気がとても良い。

神聖な(と思われる)部分、ダークな部分、温かい部分、いろいろなものが、その旋律の中に含まれているような気がして、たくさん合いそうな曲はあるけれど、やっぱりこの映画(本作品)に合うのは、この曲だなぁと感じました。BGMって、要はBGMでしかないのだけれど、やっぱり雰囲気を包んでしまうだけの効果はすごいものだなぁと。公開が楽しみです。

赤のみそ汁

インスタントの赤みそのみそ汁を前にしつつ、更新しています。今日は宿舎の同期が無事帰国して、何とか再びアシスタントは2人体制になりましたとさ。(本当は4人が標準なんだけれど、2人卒業してしまったので)

先日の演奏会のレビューを書くのを忘れていました。たくさんの方にご来場いただき、またアンケートには多くコメントをちょうだいしまして、本当にありがとうございました。一緒に演奏した方々とともに、ホールの響きの中で幸せな時間を過ごすことができました。

ブランデンブルク協奏曲は、正直に言うと「よく分からんなぁ」と思う部分があったりもしたのだけれど(勉強不足です)、本番で弾きながら「ああ、ここはこうだったのか」とか「こんなきれいな響きだったのか」と気付く部分も多く、新鮮な気持ちで楽しむことができました。チェンバロのきれいな音に聞き惚れながら、第1楽章の長大なカデンツァの後の入りが心配だったというのは、今だから言えることですが。

余裕ができた時にはキリスト教と音楽に関する書籍を読みたいと思っています。天上への祈りのしるしとしてのバッハの音楽、合奏団のために作曲したとは言うものの、やはりどこか神秘的な響きを擁するその音楽は素晴らしいなぁと。ところどころでハッとさせられる音の重なりは、バッハ以外にはない(あるとしてもバッハ的な印象ではない)音楽だと思います。無伴奏ソナタなどとはまた違った味わいでした。

モーツァルトのクラリネット協奏曲、もうこれは「いい曲!」以外の評価はありえません!僕は特に第2楽章が好きなんですが、晩年のモーツァルトのどこか不健康さというものを感じつつも、ある意味、聴き手を現実社会から完全に引き離してしまって、音楽の中に浸してしまうというのはすごい。何よりもこういったことを感じながら演奏できたのは、一重にソリストの方の腕によるものなので、感謝感謝です。

メインの40番。アンサンブル上の事故は多々あったものの、「悲しみは疾走する」その様子は、やはり曲の魅力そのものではないかと思います。若干(個人的な印象としては)ベートーベンっぽい部分もあるような気がするのですが、その熱さがモーツァルトによって書かれたところが、この曲の特殊性な訳で、第1楽章の後半などは、その極みではないかと。ぜひとも39番、41番も演奏したいものです。(38番は過去に演奏済み)

フィリアホールも本当に素敵な会場でした。ご来場下さった皆さま、お世話になった演奏者の皆さま、スタッフの皆さま、本当にありがとうございました。

時間感覚について

留学生宿舎に住んでいながら、留学生の時間感覚が実はいまだによく分かりません。「この日までに出してね」という公的な書類は、その日に集まった試しがないし、(さらに提出遅れてますよ、という案内に反応しない人もいるし)そもそも学生だからとかRAが嫌いだからとか家に帰ってないからとか諸処の事情はあるとは思うのだけれど、概して(僕が考える日本の社会の基準からすれば)時間には「ルーズ」であると思う。

ただ、問題となるのは、その時間という概念に「ルーズ」という認識が合致するのかどうか、ということなのかも知れません。中学生の頃の教科書(だったように思う)に、あれは極論だと思うけれど、「日本以外の国においては「集合時間+αの時間を加味して考える」的な項目があり、その時はどういうこっちゃと思っていたのだけれど、今思えば、そもそも時間に関して機軸性のようなものを求めていないんじゃないだろうかと。

時間とは合わせるもの、絶対的な客観性を持つもの。日本では、そこにある一定の基準をシステムとして付随させていて、例えば〆切に少し遅れてもそこは「やさしさ」でカバーしてくれるようなこともあるわけだけれど、構造的には時間=システム、それを補完する人間の感情のようなものを求めているのだと思う。公的なものについては感情は完全に排除されることもままあるし、それはそれで公平性が確立しているわけだ。

時間は過ぎるもの、時間は流れるもの。人間基準で考えればこういうことになる。すなわち、システムとして成立しているのではなくて、時間とは単純にそこに存在しているもの、ということになって、言い換えれば、「やさしさ」があれば何とかなるんじゃない?というような流れになることも自然ではないかと。場合によっては、(人間基準なわけだから)社会的なルール、例えば赤信号は止まれだとかもそれ以下になる。

アシスタント業務をする上では、そりゃ〆切を守ってくれなきゃ正直困ってしまうわけだけれども、こう考えると、そもそもの出発点が違うわけで、こればっかりはどうしようもないんかなぁとも思う。(ま、そもそも深く考えすぎだろっていう指摘がどこかから聴こえてきそうな気もするんですが)時間感覚の民族における相似性とかいう研究なんて、どこかにありそうだけれども…。余裕ができた時に探してみようと思います。
プロフィール

とりけん

最新コメント
記事検索
  • ライブドアブログ