Vinum et musica laetificant cor.

「ワインと音楽は心を喜ばせる」―ラテン語の格言より。

あおくさい

チャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」(弦楽四重奏曲第1番?第2楽章)を聴いている。どうしたらこんな曲が書けるんだろう。ロシアに行けば分かるんだろか。

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昨日から天気は下り坂で、見事にここ2日は曇ったり、時には雨も降った。蒸し暑い夕方に雑草の生い茂る中庭の端っこを通ると、そこから「あおくさい」あの特有の匂いがむわっと沸いてくる。人によっては、おそらく嫌悪する匂いだけれども、実は自分は案外嫌いでもない。かと言って何時間もずっと嗅いでいたいわけでもないけれど。

いやだな、と思う理由の一つは、その匂いに何の効用もないからだと思う。むわっと沸く匂いは他にもあるけれども、「あーおいしそうだなーお腹空いたなー」というものでもなければ「何かすっとして気持ちいいなー」というものでもない。せいぜい感じることは「うわー虫いそうだなー」とか「蚊にさされたらやだなー」程度のものだと思う。

まして夕立の匂いのように、涼しさを伴うものでもない。むしろ、蒸し暑さが増すように感じるくらい。ただそれでも個人的にいいなと思うのは、「夏」特有のものだからだと思う。夏でなきゃ匂わないし、むしろ、今年もこんな季節かと思う一つの指標のようなもの。雑草のレベルが違う、つくばの一の矢?K棟の間は、本当にこの匂いだらけだった。

明日は晴れるといいなぁー。

オーケストラ・ミューズ演奏会

蒸し暑い日が続く今日この頃。今年の夏も、つくばでの演奏会に出ることになりました。


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オーケストラ・ミューズ 第5回演奏会

*日時: 2009年8月2日(日) 開場13:30、開演14:00
*場所: つくばセンタービル・ノバホール(Tx「つくば駅」下車徒歩3分)
*曲目: ベートーベン/交響曲第2番
      チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲※
      モーツァルト/交響曲第26番

*指揮: 小田野宏之
*ヴァイオリン独奏: 三浦章広
*チケット: 全席自由、前売り1000円、当日1200円

その他、下記ウェブサイトもご参照下さい。
http://muse.s101.xrea.com/


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メインには、若きベートーベンの力作・交響曲第2番。栄光や崇高なものを指す際に多用されるニ長調、第1楽章・第4楽章のこれぞ栄光!とも思える響き、間に挟まれた第2楽章の美しい旋律、遊び心溢れる第3楽章など、一般にはベートーベンの偶数番号はあまり知られていませんが、素晴らしい作品です。

中プロには、三浦章広氏をソリストにお迎えして、三大ヴァイオリン協奏曲の一つ・チャイコフスキーを演奏します。チャイコフスキーらしい印象的な旋律が特徴の第1楽章、個人的には「いかにもロシア的」とも感じる第2楽章、そしてロシア固有の民族音楽からのリズムを引用した第3楽章。僕の中では、チャイコフスキーと言えばこれ!という一曲。

モーツァルトの交響曲第26番は、なかなか演奏機会が少ない作品かと思いますが、さすがは神童、そこかしこに仕掛けが潜んでいて、なかなか演奏者としては楽譜の見た目以上に頭を使う気がします。舞台から放出する明るい響きから客席を舞台に引き込む暗い響きまで、その変化はやっぱりモーツァルト。

ご忙しいとは思いますが、ご都合よろしければぜひぜひお越し下さいませ。

小説三連発!

伊坂幸太郎の「終末のフール」と前後して読んだ小説を、どどどっと三連発!

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森絵都 『風に舞い上がるビニールシート』 文春文庫、2009年

先月まで、表題のドラマが放送されていましたね(吹石一恵、クリス・ペプラー、片平なぎさ他)。6編が収録された短編集で、どれもなかなか、程よい時間の流れ方をするお話でした。表題の「風に舞い上がるビニールシート」は、UNHCRの東京オフィスを舞台に展開していく話で、登場人物の台詞になるほどなと思ったり、別の登場人物の(言葉になっていないような)感情や感覚が鮮やかに伝わってくる作品でとてもよかった。他に好感を持てたのは、やっぱり、と思いつつも一ひねりがあり、読後も爽やかな印象が残った「ジェネレーションX」がおすすめ。


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重松清 『その日のまえに』 文春文庫、2009年(第7刷)

帯にも書いてあるし、友人の評にも書いてあったけれど、やっぱり読んで泣きました。電車で読んでいたけど、一旦途中でやめたくらい。構成としては、7編の短編、それぞれの話の中に別の話の登場人物も出てくるというタイプ(個人的にこの構成は好きです)。その日のまえに、その日に、その日のあとで、自分は何を考えるだろうか。人は旅立つときに、残る人に少しずつ魂を分けてゆく、残る人はその重さに最初つらいけれど、徐々に徐々にそれに慣れていく。―こういった題材の本を読むと、いつも「のんのんばあ」(水木しげる)の話を思い出します。


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森見登美彦 『夜は短し歩けよ乙女』 角川文庫、2009年(第3刷)

新幹線に飛び乗る前にふと手にとって即断で買った一冊。その時は話の概要も知らず、名前は知っているし、と思って手に取りました。が、これぞ素晴らしき壮快・爽快感!登場人物がオモチロイ人ばかり、また文章の構成として「いたずらしようとしている様子を別のカメラで撮っているようなもの」だったので、思わずにやにやしながら読んでしまったり、結びもすっきり素敵な作品でした。いやー、京都もオモチロイ街だなぁー。羽海野チカさんの「かいせつにかえて」も(僕のイメージの乙女ではないけれど)、なかなか楽しいものでした。なむなむ!

よそいき

前回の日記のカウントがすごい…!と言いつつ、特に問題が解決したわけではなく、むしろMP3を聴きつつ、こんな風に音が出したいなと考えながら、ふと体の使い方をイメージすると、どことなくぎくしゃく。まだまだですな。

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電車には、独特の匂いがある。これは前にも書いたことだけれど、山手線のにおいがごちゃごちゃ(分析不可能)、横須賀線はどこか開放的な匂い、つくばエクスプレスはまだまだオープンしたての建物のエレベータみたいな感じ、そして田園都市線は、名前の通り、まったり田園(でも都会人を意識。そして朝晩のラッシュの時間はごちゃごちゃ)という具合。

それを踏まえると、ゆりかもめはどこか「よそいき」の匂いがする。乗っている人も、家に帰るんじゃなくて(もちろんそういう人もいるけれども)、どこかに出かけていくような、そんな雰囲気。実際、ゆりかもめの沿線に住んでいる人は少ないわけだし、例えば台場や青海の駅に隣接しているホテルだとか、今なら潮風公園のガンダムを見に来るとか、というものなんだと思う。

今日は目の前に4人家族(お父さん、お母さん、女の子、男の子)が乗ってました。いやー微笑ましいなぁーと思いつつ、やっぱり子どもの目はすごい。見ているものについて、それをそのまま受け入れるような色を持っている。大人なら「怪訝そうな」とか「興味なさそうに」とか「ボーっと」とかあるけれども、子どもはそれがない。正確には全て「不思議そうに」に近いかも。

ちょうど持っていた本も読み終わった帰り道でした。なむなむ!

スランプトランプ

単刀直入に、今「楽器を弾く」ということに関してスランプです。

オーケストラの中で楽器を弾く以上は、そこに何十人という人がかかわっている訳で、その人たちとのつながりの重要性は言うまでもない。仲良しグループなら良いのかも知れないけれど、そうだったら逆に音楽に対して厳しくできるのか疑問だし、ある程度の緊張関係はあって然り、必要不可欠なものだと思う。よって、そこにストレスを感じる訳ではないのです。

むしろ非常に内面的なことで、昔は「こんな風に弾きたい」と思えば、そこに突き進んでいたのが、最近では「こんな風に弾きたい」と思うこと自体を疑問視するようになっているというか、疑問視することされることについての「恐怖心」のようなものを感じるようになっています。偉大長大な音楽に対しての畏怖はもちろん常にあるけれども、もっと近い恐怖心(のようなもの)。

オーケストラにおいて一番こうした感覚を強く持ちますが(おそらくそれは自分とオケ全体と指揮者との同じ音楽に対する「共感」が必要になるから)、実は案外それだけでもなく、室内楽で弾いている時でも、そしてさらに誰も聴いていない一人で弾くような時でも、多かれ少なかれ似たような感覚に陥ります。平たく言えば、自分の声を録音したテープを聴く時に味わう、あの苦い感じ。

聴くのは相変わらず好きだし(好みに偏りができてきたような気もするけど)、決して音楽と音にかかわることが嫌いになっているわけではない。それにストレスフリーで演奏することは、個人的には楽器を弾くこと自体がバネのようなもので、外的な圧力と内的な爆発の間でのバランスを取ることだと思うので、果たして良いことなのかどうかは大いに疑問。

今夜はちょっとがっつり食べて考えようかなぁ。

discommunication

最近、そこかしこでdiscommunicationが気になります。ちょっとした連絡のし忘れ、伝えるときの表現の問題、それから「話を聴き相応の態度を取る」ということ。どれもこれも普通のことなのかも知れないけれど、例えば、自分を取り巻く組織の業務に忙殺されていたりだとか、疑心暗鬼を抱かせるような表面上の応対とか、ストレスフルになりやすい。(自戒も込めて。)

多くの「程度の差」があるとは思いつつも、風に舞い上がるビニールシートは後を絶たなくて、空を真っ黒になるまで覆ってしまう。その下でできることは舞い上がるビニールシートのような際限ないものを一つひとつ集めていくことと、ビニールシートがこれ以上舞い上がらないようにすること。でも、そのためにはやっぱり手が足りない。ここ数日、本当にそう思います。

思い巡らす

前から読みたい読みたいと思っていた本がついに文庫化されたので、早速買って今日読み切ってしまいました。いやー、満足?。

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伊坂幸太郎 『終末のフール』 集英社文庫、2009年


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もともと、前にバイトをしていたお店の店長さんに「伊坂ならどれが一番お薦めですか?」と聞いたところ、「これが一番好き」と薦められたのがこの本でした。短編、長編両方書く人だけれども、今回の「終末のフール」は「チルドレン」とも少し近い連作短編集。(もちろん、舞台や人物設定は異なりますが、内容は読むまでのお楽しみということで。)

僕自身は、何かを読んでいる時、必ずその背後に流れている音楽を想像します。今回は、そもそも読む前から聴いていたけれども、スピッツの初期の作品がぴったりだなぁと。聴き手をせかす訳でもなく、歌詞と一緒に沈ませるわけでもなく、淡々と流れていき、やっぱり最後はどこかほっとする、というところがそっくりだなぁと。(特に「愛のことば」)

内容には触れない、と言いつつも人の生き死にが関わってくるのだけれども(もちろん、それ自体が話の主題ではないと僕は思うし、そもそも読み手によって感じる部分は異なるわけだけれども)、登場人物が何を思い、いずれの選択したとしても、どこかほっとする。あぁ、そうだ、そうなんだ、と思う。そこがスピッツと似ています。おそらく。

中身にぴったりの装丁も素敵だと思います。

世界との距離

大学院の友人の多くが、明日から官庁訪問に向かう。それぞれが、それぞれの思いを抱き、それぞれの未来の中に「国の行く末」を投影して、明日からの何週間かを過ごすことになる。納得のいく結果が出ることを祈っています。

今日読み終えた本の中に、UNHCR(国連高等難民弁務官事務所)の話があり(小説だったので、話の主眼はそこではないのだけれど)、「なるほど」「そうか、そうかも知れない」「それじゃ自分はどうするのだ」と考えさせられる文章に触れた。自分が世界に対してできることは何だろうか。

大学は誰のものか

今日のテーマは普段以上に私論満載です。

縁あって国立大学法人に関するレポート(研究論文ではないです)を書いています。自分自身、国立大学法人発足の年に大学に入って、制度自体はこれまでの見直し時期である第2期中期目標を迎えようとしているという段階。大学自体のまとまった報告や論文などはまだまだ少ないですが、時期的なものもあり、新聞などの報道では断続的に「国立大学法人」の文字が躍っています。

参考文献を見ながら、とても不思議に思うことが一つ。大学の裁量と権限の拡大→自主・自立(もともとは大学の自治ですね)→選択と集中→個性ある大学という大枠はたいていどの文献にも載っているし、例えばいろいろな対談集などにも記録として、この趣旨に関する発言は残っていたりする。もちろん、無駄なお金の浪費はやめる、ということについては僕自身も賛成したい。

でも、果たして大学の「無駄」ってどうやって図るの?という問題があるわけです。例えば、今や電子データで残せるようなものを、むやみやたらに紙におこして記録する(もちろんそうしなきゃいけないものはあるでしょうが)ことは、「削れる」出費なんじゃないかなと思う。それじゃ、研究はどうか。何が無駄と判断でき、その成果が出ないものだと、いつ決めることができるのか。

国立大学法人制度自体を全否定したいわけではないけれども、少なくとも法学や文学は、実質的にロボットが生まれるわけでも、医療技術に貢献するわけでも、ましてや、一朝一夕に「成果」と呼ばれるようなものが生まれるわけじゃない。もともと成果の「測り方」も難しい(というか測れるんだろうか)し、相対的にセクショナリズムの強い組織においては、予算も削られていく。

公共政策ないし政策科学という分野自体、セクショナリズムがあっては成り立たないものだと思うし。あ、これは余計でした。

遠回りして、何が言いたいか、というと、最終的にしわ寄せに遭うのは、研究者よりもむしろ学生なんじゃないかと。限られた予算、研究の成果が出なきゃ給料にだってかかわる研究者、学生に対する批判的なもの(批判されるような学生もいるだろうけど)が注目される記事。こんな状況下で、学生のために使われる(例えば設備の充実化や更新など)お金なんて余計に減ってしまう。

参考文献を読んでいて不思議なこと。それは、改革を「される」側の末端の人間の声が収録されていないこと。先日読んだ学内広報誌に則して言うならば、「森を動かす」に当たって、外見の森だけを見て考えるんじゃなく、森を担う者(木とか土とか水とか、いろいろな要素があるじゃないですか)の声も聞いてほしいな、という感じでしょうか。

カミナリ、要注意!

外の雨が激しい。これから帰らなきゃいけないのに。

昨日はグリーグの誕生日(1843年)、明日はグノーの誕生日(1818年)。で、今日は何かないかなと思ったけれど、特に知っている作曲家の誕生日はありませんでした。残念。ちなみに今月初旬は「日本で初めてアンコールが演奏された日」(4日)や、ピアニストのアルゲリッチの誕生日(1941年)などがありましたとさ。ヤマハの日めくりカレンダーはなかなか面白い。

前々から読みたいなーと思っていた本を先日ようやく読み終えて(大したボリュームの本ではなかったんだけど)、その中に書いてあった一説に妙に納得。マーラーの音楽に対する考察の部分で、彼の音楽とは《神なき時代に生まれた神への希求と懐疑》である、とのこと。なるほどなぁと納得すると同時に、マーラーやってみたいなぁと思う今日この頃です。ミーハーですね。

今日この時間まで学校に残っていたのはレポートを書いていたため。まだまだ先は長く、これからもっと資料も集めなきゃいけないし、論文や書籍も探して読まなきゃいけない。きっちりかっちり進むものではないけれど(もちろん、そのための努力はしなくてはいけないけれど)、地道に書き進めなくては。今日のBGMは何となく聞きだしたスピッツの「愛のことば」。

いい曲です。さ、帰ろう!
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